Keiko N. 私小説エッセイ

No, Thank you  のう てんきゅう
私がアメリカへ16才で渡り、初めて体得した言葉は「のう てんきゅう」(いいえ、結構です)でした。何だかずいぶんとシケた言葉から覚えたものです。

アメリカ行きの飛行機に乗り、成田空港で母と兄とに別れを告げ、真っ暗な闇夜に輝く房総半島の夜景を見ながら、「もしかしたら生きては帰れないかもしれない。これじゃまるで銀河鉄道999の鉄郎だ。うるうる・・・。」などと涙ぐんだのは1984年4月のことで、アメリカではその年のイ−スタ−でした。

日本ではシ−ズンオフでしたし、乗客は何だか旅慣れた風な外人ばかりで、日本人なんて、遠くに若い大学生くらいのお兄さんが居ただけでした。思い返せば、彼は一生懸命に折り紙で鶴を折っていました。周りの外人にウケていたのが印象的で、今考えると、彼も又、慣れぬアメリカ行きで、周りの外人と何かしらきっかけを作って英会話の練習がしたかったのかも知れません。

しかし、高校1年にして既に英語は赤点という私の場合、がっちんがっちんに緊張しており、とてもじゃありませんがそんな器用な行動に出ることはできなかったのです。
「姑息なマネはすまい。なにか正々堂々と、この隣に座る夫婦者に話かけなければ!」と、私は画策していたのです。

しかし「お話させていただいて宜しいでしょうか?」という非常に情けなくも奥ゆかしい言葉が英語に訳せず、私は一人悶々と空を飛んでいったのです。
「きゃん あい・・・」か「めい あい・・・」だったか「うっじゅー まいんど・・・」かもしれない。ああ時間だけが悪戯に・・・過ぎないんですね、これが。もう頭の中がすっかりぱんぱんで、胸は苦しいわ、気持は悪いわで最低でした。

しかし、そんなこととは露とも知らぬフライトアテンダントのお姉様は、次から次へと、ほれジュ−スだ、食事だ、スナックだとやって来る。
唐突ですが、私は炭酸ジュ−スが嫌いです。その上コ−ヒ−もあまり好きでない。そんな私が飲めるものは何ぞや?一体何があって、どう頼みゃ出してくれるんだろう?
食事にいたっては、臭いからして美味しくなさそうであって、ただでさえ気分がよくないのに非常に困りました。「ど−せもらっても食べられないのに・・・。」

隣の夫婦者の奥さまは、しら−っとペ−パ−バックを読んでいらしたのですが、その後、旦那様にもたれて眠りはじめました。その時、フライトアテンダントが「これでもか」とオ−ダ−を聞きに回ってきたのです。彼女は起こされました。何事か聞かれ、そこで彼女は答えました。"のう、てんきゅう"と。
すると、何ということでしょう!あのしつこい笑顔のフライトアテンダントが、すごすごと、笑顔も絶やさず去っていくではありませんか!

「こっ、これだ!今私に必要な英語はこれだッ!」と私は確信しました。

このあと、フライトアテンダントが何を持ってこようとも、私は食べ物を粗末にせずにすんだわけです。
今思えば、涙が出るほどバカバカしい話です。

隣のおばさまにやっと話しかけられたのは、もうシアトルに着く1時間位前になってからの話で、とても優しく相手をしてくださり、恐らく何を言っているのかわからなかったであろう私の英語を、一生懸命に理解しようとしてくれました。そしてこの上なく心配そうな顔をされてました。当然ですね。

そんなこんなでシアトル・タコマ国際空港に着いたころには結構気分もよくなっており、見るもの聞くもの全てが珍しく、私は外国気分を満喫していたのでありますが、そこで私は国内線に乗り換えねばなりませんでした。ところが、カウンタ−の職員にチケットを見せると、にっこり笑って「早すぎるわねぇ。」と言うのです。(この英語は何故かジェスチャ−付きでよくわかりました。)
彼女は親切にも、メモに3:15と書いて渡してくれました。今はまだ1時で、飛行機の出るのは4時15分で、1時間前に来いというわけです。私のチケットを手配してくれたTさんは「大丈夫よ、税関とか通ってるだけで時間なんて余らないから。」と言っていらしたのですが「あいつらは信用できない。」と、このとき私は強く感じました。

さて、折しもイ−スタ−です。アメリカ中の一般市民は、教会へと出かけ、家族とエッグハンティングに興じ、お祭り騒ぎをする日でありますから、飛行場はもぬけの空でした。でも、私はそんなことは知りません。だだっ広い飛行場に、一人で3時間も取り残されてしまったのです。
飛行機の中でろくろく食事もしなかったので、腹ばかりがへっています。「これはいかん。」レストランもあるのですが、やはりもぬけの空で、しかもアメリカ特有の、暗−い照明がぼんやりともったカフェテリアでした。今思えば、営業していたには違いないのですが、当時の私にはわかりかねました。「あんなおっかないところで飯なんか食べられない。」

すきっ腹を抱えて私は一人、貸し切りのロビ−で日記を書いたのです。