Keiko N. 私小説エッセイ

On the move おん な むぅばっ
大概の人は、一生のうちに引っ越しの一回や二回はしたことがあるでしょう。
私は、諸々の理由で人様よりかなり多めに引っ越し経験を持っていると思って今まで生きてきました。
今年で33才になりますが、引っ越しと呼べる行動を私は既に20回しています。

一回目は全然記憶にない赤ん坊の頃で、心臓病患者だった私の通う、東京女子医大病院があまりに遠いので父の実家だった福島県から、母の実家に近い茨城県へ越したのです。そこで、なんらかの理由で団地から団地へ二回目の引っ越しがありました。(らしい。)

三回目は私が幼稚園へ上がる直前で埼玉県大宮市へ。両親が心臓手術代を捻出するため(当時は先天性の心臓病に保険が適応されていなかったようで、何千万円もの手術代が保護者の肩にのしかかっていたようです。)脱サラをし、自営業を始めるための引っ越しです。その大宮市で、店の裏にくっついていた6帖だか8帖間だかから2DKのアパートへ越した。これで四回。そこで何故か私の心臓病は、手術無しに完治してしまったのです。
ところが、自営業は割と着々と発展し、欲のでた両親は同じ埼玉圏内でも、もうすこし開けていた草加市へ引っ越す。五回目。その草加市で始めて家というものを持てる身分となり、新築の4DKへ。六回目。

ところが、ところが!中学生活もあとわずかという頃に両親は離婚という事にあいなり、私と母はまたまた2Kのアパ−トに越すのです。七回目。

この辺から私の引っ越し歴もちょっと大胆になってきます。高校1年の終わりに私は単身、英語赤点の汚名を引っ提げて渡米するのです。渡米先はワシントン州スポ−ケンという片田舎。当時26才だった女性と、2才だかの娘の二人暮らしという家に2カ月ほどおいてもらう。いわゆるホ−ムステイっつ−やつだったんですが、そんな生易しい状況ではなかったとだけ記しておきましょう。ははは。八回目。

この母子家庭から、神の教えを信じて(?)ロ−マンカソリックの家庭が私を拾ってくれることになります。ここで私は高校卒業まで1年半ほどお世話になりました。九回目。

高校卒業後、ビザも切れるし金もないので(当時は円安で1ドル280円位していたため、私の母としても仕送りが厳しかったと見えます。)とにかく帰国する。
帰国してみると母は2Kのアパ−トからは引っ越しており、千葉県松戸市に自分一人で始めた店の近くで3Kのアパ−トを借り、兄と一緒に暮らしていたのです。もうこの頃になると、引っ越し慣れもかなりのものとなっており、1週間も住めば「ここがあたしんちだぁ。」といえる自分がありました。十回目、二桁の大台にのる。

そこで私はアメリカの大学に入学するため、せっせと働くことになります。18の小娘が高額所得者になるのはむりであったにしても、英語はしゃべれるようになっていたし、英文タイプをアメリカの高校で教えていただきましたから「ここで譲ってなるものか」とあがき通して働き続けました。
この間に母は3LDKのマンションを借ります。十一回目の引っ越しは、二階建アパ−トの1階から、14階建てマンションの13階へという天へ昇るような引っ越しでした。
そのマンションに住んだのも束の間、私は無事大学への入学許可が下り、再度アメリカへと渡り、高校時代にお世話になった、勝手知ったる他人の家へ帰ったのです。十二回目。

ところがそのホストファミリ−の家から大学までは、バスで乗り換え、片道1時間半の道のり。長い冬には雪の深いその街で朝7時半から始まる講義に通うためには、陽も昇らない朝5時に起きて、吹雪の中をバス停まで歩き、夜6時からの夜学講義が終わって帰りつくのは11時近くでした。「これでは宿題もできない。」悟った私は、大学まで、歩いても40分というところに家賃155ドルという、やたら古くてこきたね−アパ−トを見つけ、生まれて始めての独り暮らしに挑みました。十三回目。

こういうのも何ですが、私の大学での成績はその後、うなぎ登りに上がっていきました。そして大学で同じグラフィックデザイン課生であった夫と結婚とほぼ同時に大学を卒業し、就職のため大都市シアトル(スポ−ケンに比べれば)のアパ−ト(2LDKガレ−ジ付き、家賃585ドルという大出世物語です)へ引っ越します。十四回目。

そしてそこで面白おかしく働いて遊んで暮らしたわけですが、ひょんなことから日本の母のマンションへ、夫婦で引っ越し、同居するという事態が起こります。堂々の引っ越し十五回目でまたまた太平洋を渡ってしまったわけです。

同居は現在も続いているのですが、このマンションの契約更新を何度かしている間に埼玉県吉川町というへんぴな場所に新築で広い公団が建つことを聞き付け、深い考えもなく応募したら、当たってしまい「当たった限りは」と引っ越す。十六回目。

はじめは3年と言う約束でやってきた日本も、気がつけば4年を過ぎ、夫は少し疲れていました。持病に苦しむ母も疲れていましたし、母の経営するブティックもバブル崩壊後、かなり疲れていました。家族会議の結果、アメリカへ帰国することに決定。なんもかんも処分してシアトルのアパートマンションみたいなホテルに引っ越し。十七回目。

事実と言うのは、いつも小説より奇です。シアトルで適当な3LDKのアパートを見つけて引っ越し、家具まで買い揃え、そっちこっちへ就職活動に出かけながら、私達夫婦は「なんかが違う」と思いはじめたのです。何年かアメリカと言う土地から離れている間に「記憶の中のアメリカ生活」と「実際のアメリカ生活」とのギャップが堪え難い程大きくなっていたのです。
思い立ったら行動してしまう私達は、わずか3ヶ月のアメリカ生活に終止符を打ち、日本に帰国。従弟のつてを頼って、アメリカのアパートの約1/3サイズのアパート2Kへ引っ越し。
狭くても産まれて初めての23区生活!両国駅から徒歩5分。十八回目。

都会の生活はすべてが目からウロコであり、それはそれは面白おかしかったのですが、流石にスペース的な問題から次の引っ越し案が出てくるまでに時間はかからず、またしても「保証人がいらない」公団を探す。聞いたこともない、江戸川区小松川と言うところに空きスペースを見つけ引っ越す。十九回目。

ところがそこで中々に快適な生活をしたのもつかの間、正確に言うと1年ですが、鉄筋コンクリート11階建ての4階に住んでいると言うのに「雨が漏りだした」のです。そ、そんな馬鹿な・・・。上の階の人が水をこぼしたわけでもなく、しかも、雨が漏ると言っても「雨の日」に漏るのではなく「雨が降り出して2日もすると漏る」のです。まいりました。リビング&ダイニングルームのそっちこっちから、絵に書いたように「ぴったん、ぽったん♪」。折しも私は、初めての子供を妊娠中。こんなところで子供を産んだら、大事なわが子にカビが生えてしまう・・・。
暗くなっていた私達夫婦をみかねて母が「ちょっとそこまで桜でも見に散歩に行こう!」と誘いました。目と鼻の先ですが、普段まったく通らなかった公園へ桜を見に行きましたらば「オープンルーム」のサイン。まわりじゅうのビルがすべて公団だと勘違いしていた私達は「あら、売りマンションもあったんだ?」とひやかしに入りました。
夫が外人ですからローンは組めません。そうなると頼りは自分だけですから、もとより、不動産が買えるなどとは思ってもいなかったのに、嘘のように話が進み、はっと気がついた時には身重で引っ越しをしておりました。二十回目。

そして現在に至るわけですが、この先私は何回引っ越しをし続けるのでしょう?
「不動産を購入したのだから、そんなに簡単に引っ越しってことにはならないでしょう、普通」とおっしゃる方が「普通」だと、私もわかっているのですが、なにせ現在住んでいるのはエレベーターなしの5階建ての5階。母の持病が進行すれば車椅子生活が不可能な物件です。ついの住処として購入したのではないことは実は夫婦共認めていることなのです。
引っ越し癖がついているのでしょうか?世の中には「引っ越し魔」と言う肩書きもあるそうですが、私は自分が引っ越し魔だとは思えないのです。その時その時で、しかたなく、でも、最善を目指して行動した結果としか言えません。そして一度として無駄な引っ越しはなかったと、自身を持って言えるのです。
引っ越しには莫大な費用が動きますから、当然のごとく、私は引っ越し貧乏です。でも、引っ越していなかったら今頃銀行口座にはこのくらいの現金が・・・などとは考えない「おとくな」?性格でもあるのです。
引っ越しは私の必殺得意技の一つで、段取りから荷造り、新居での落ち着きスピ−ド(?)まで既にプロに近いものがあります。
家財道具の整理整頓ができたり、新しい場所での未知の体験や、引っ越しという名目でできる買い物まで、とにかく私は好きなのです。旅行先だろうと何だろうと、素早く落ち着いてしまえるのはとても便利なことです。

私にとって「私の家」とは場所でも建物でもなく、私の愛する人がいるところだからです。

などという話を、先日夫にしたところ、彼は首をひねりながら指を折りだしました。
「俺、26回引っ越ししてるよ。」「えっ。だってあなた私より一歳下でしょうが?」

彼の引っ越しの事実と事情に関する記憶は、私ほど整っていないようですが、似た者夫婦だったことを改めて認めざろうえませんでした。