過去における育児日記

思い付くままに書き綴った過去の育児日記です。
本当は毎日書ける程いろんな事があったけれど、書く時間は、なかった。
残しておきたいような、心にあればそれで良いような、
書く時間があれば息子の顔を見ていたいような。

1999年10月
2年近く前に発生(?)した息子は魚類と昆虫レベルの生命体をへて、あれよあれよという間に動物になり、最近、親がうなってしまうくらい高等動物化している。
人類への道もきっと近いことと思う。
先日、某国営チャンネルでラスベガスのマジックショーをやっていた。
会場の人々がわあーっと拍手すると、それを見ながら喜んで拍手していた息子だったが、当然マジックそのものを理解しているわけでは全然ない。
その中で、キラキラ衣装のハデハデ青年が檻(箱?)に女性2人を押し込んで、消してしまうのがあった。消えてしまったところまで、息子はむっとした顔でテレビを見ていたが、その檻から今度は豹が現れた。とたん、息子はわっと立ち上がって興奮して拍手を始めた。うーん。うけている。単に動物が大好きなだけか。
いろんなインターアクションができるようになった。
言葉にこそならないが、本人は喋っているつもりなのだから、そのように対応してやらないとむっとされてしまう。
簡単なことを教えると「え?」っと思うほど、すぐに覚えてしまう。
ものすごく細かいところを色々と記憶している。まさかと思うことを見ている。
何をどう間違うと、竹下通りでへらへらと歩いている少年少女になってしまうのか、わからないような、わかるような・・・。くわばらくわばら。
息子は今、充電式の天使だ。スイッチは、ない。
電池が残っているかぎり、全速力、出しっぱなしで、切れると充電に入る(眠る/食べる)。電池が切れかかると機嫌が悪くなる。面白い。じつに興味深い生き物だ。
こんなに美しい生き物がこの世の中に存在しうる事実を知るのに32年もかかったんだと思うと、感慨深い。
この世には、この国には、もっともっと、こんな生き物を増やさなくてはいけない。
なぜなら、この生き物には寿命がある。この生き物はきっと、片手で数えられるくらいの年数で違う生き物に変化してしまうのだ。その変化を成長とか進化とか呼ぶのだが。
さすがにこの年になると、割と素直に受け入れられる事実として「やってない人にはわからない、いつかその日が来ればわかる」ってのがある。
小さいころ「お前はまだ子供だからわからないだろうけど、大人になればわかるんだよ。」と言われるほど腹の立つことはなかった。何でもわかっているつもりだった。想像力さえあれば、大概のことは理解できると思っていた。本を読んだり、人の話を聞いたりすれば、疑似体験が可能であると、信じていた。
いつからなのか記憶にないが、「やっぱり、体験しなきゃわかりようがないに決まっている」ことがあるのだと気がついた。そして、それぞれの状況においてある程度「体験を同じくする」人同士でないと会話が成り立たない、相互理解は存在しない事象というものがあり、その一つに、私は出産又は子育て、「人の親になる」と言う経験を加えた。
私は養子制度に肯定的な女である。自分の肉を引きちぎって産んだ息子を前にしても、今日養子を迎えたならば、同じ愛情で育てられると、今も信じている。私の母に言わせると「それもまた、やってみるまでわからないことだろう」と言う。正論だなあ。
子供をもって、初めて、私の中でいろいろな考えが増え、また、変わった。
私は長いこと子供は男と女が一人ずつを理想とし、男が二人、もしくは女が二人続いて産まれたら、養子をもらおうと決めていた。
一人産んでみて、夫の、父親となる男の快諾があるかぎり、男でも女でも、自分の子でも人の子でも何人でもほしいと思う。母性本能って奴なんだろうか?
学生のころから「腐るほどの愛があるのに、受け取ってくれる人がいないからどんどん腐り果てていく」と、友人と笑いあうほどに、自分の中に「愛の元」の存在(?)を感じていた。
あれは、子供の母となるためにあったのだ、と、今、私は確信する。