Keiko N. 私小説エッセイ

Dilemma でれんま
私の夫が、初めて日本にやってきて覚えた日本語のセンテンスが「おなかすいた」であったように、正規の教育を受けずに、実地で外国語を修得しようとする場合、おのずとそれは、生活に密着した言葉から始まります。

私が初めてアメリカへ渡ったときも、高校1年までの日本の英語教育は受けてはいたものの、成績は赤点で、基本的な初歩の文法以外、役に立つことは頭に入っておりませんでした。
なにせアメリカは俗語が入り乱れ、文法だって一筋縄でいくものではありません。
そんな中で私は、ひたすら赤ん坊がするように、人のしゃべった言葉を真似、わかろうがわかるまいが「こういう状況の時に、こういう雰囲気で言うと、こういうふうに話が進む言葉」として、膨大な数の英単語と構文を修得していきました。もちろんその間に、せっせと辞書を引いてはおりましたが「英語を正しく習得する」のと「取りあえず、生活する」のとは大違いでした。

物の名前などで、日本語でどう言うのかもわからないとき、英語で「これは何と言うんですか?」と尋ね、教えられた言葉を素直に暗記する。これの繰り返しをして10年も来ますと、日本人のくせに、「英語でなんて言うかは知ってるけど、日本語じゃ言えない単語」というのが知らず知らずの間にすごく増えてしまいました。
時々、思い立って辞書を引いて「ああ、そうか!」と納得する始末です。

英語で会話しているかぎり、何の問題もないことで、右のアメリカ人に英語でしゃべり、左の日本人に日本語でしゃべるということをしている時に初めて「うっ。」と詰まるのです。 実際に、日本にはないものもありますし、とても珍しいものや、日本でしない言い方や、とにかくカタカナでしか辞書にもでていない言葉も多い。そんな言葉に詰まると、本当にこれがジレンマというものよ、と思うのです。

これとまったく逆のジレンマも、それはそれは長い間アメリカで味わってきました。
仕方ないことですが、渡米直後の私の英語は、2歳児にも劣るものであり、私と話す人々は、おのずと会話の内容を簡単に簡単にと、してくれる場合が多かったのです。
それはあたかも、2歳児に話しかけているかのようでありましたが、その時私は16才であったり、18才であったりしているわけです。
相手の言っていることがほとんどわかるヒアリング能力というものを身に付けてからこれをやられると、堪え難くイライラしてしまいました。が、まだ言い返せるまでにいたっていないのだからしようがありません。
友達と話していて、彼らがなにか私の知らない単語を使うと私は話を中断して彼らに聞くのです。「今、何つった?」そこで彼らは私の知っていそうな単語に置き換えて話しを進めてくれる。彼らなりの配慮であったわけですが、私としては、聞きのがした新しい単語をもう一度言ってほしいのです。親しい友達には、はっきりとそう言って、私の英語力向上に多大なる協力をしていただき、今の私があります。本当に有り難いかぎりです。

しかし、英検1級を取り、TOEICで960をマークした今でも、よくあるのが、日本語で言われればわかる専門用語などが、英語では手も足もでないときです。
私の場合、病名・医療用語などに多いことなのですが、ある程度の英語が身に付いたころから、普通に英語で話を進めているときに、ポロっと知らない単語が入ってきて「今のなんですか?」をやってしまうと「アラ、あなたこんなことも知らないの?」と言ったニュアンスで説明されてしまい、わかってみれば「ああ、何だ、日本語で○○の事か。」と知っているのに「知能指数を世間様の前で低く評価されてしまった。」という失態となって私を襲うのです。

これには未だに悩まされることが多いです。しかし、このジレンマに打ち勝つには、ひたすら新聞や本を読み、辞書を引き続けるしかないのです。

本当に外国語を修得するというのは、終わりのないジレンマとの戦いでもあるわけですが、人間のど元過ぎれば熱さを忘れ「もう一ヵ国語習いたいなぁ。」などと、呑気なことをほざいている今日この頃でもあるのです。